元 凶


-text 岩越迦陵-



 いくたびも私は哀しみの心をもって人の生死を見送ってきた。哀しみはちょうど立ちこめる霧のようなものだ。その白い霞みの中にそれを見つめるとき、愛も憎しみも愚行も狂気も、私には全てが美しく、また愛おしいものに思えた。粗鬆(そしょう)な巌も荒涼たる荒れ野も霧の中にかげろえば全てが神秘である。その神秘こそものの本然なのではあるまいか。人の愚行も人の狂気も、哀しみを通して眺めることで初めてそこに見えてくるものがある。それは宿命というそのどうにもならない力に引きづられながらもなお己が生を求めようとするひとびとの、切ないまでにひたむきな祈りの姿なのだ。過ぎ去れば過ちと捨て去られる行為にこそ、人はそこに美しい哀しみを宿す。そうした人の過ちに、いつか私は、またあの歌のような妙なる哀しみを見るだろう・・・

 
────夏はすがれつつあった。
 その日、テーバイの国王ライオスは、城の外れの花園に、王妃が従者を従えてそこにいるのを見た。王妃イオカステは無数の花々に囲まれた中にあって最も彼に花の香を思わせた。この王国の中でこの王妃の美貌に並ぶ者はなかった。その優雅に結い上げられた金の髪は降り注ぐ日射しの中で黄金を鏤めたかのようにあでやかに照り映えていた。すらりとした四肢を華麗な衣に包んだその後ろ姿に美神の面影を夢想する人々は、振り向かれた刹那に目の当たりにする彼女の美しさに息を呑むのであった。その汚れを知らない美しさを目にするとき、人々の嘆息の奥には何か不吉な惑いが揺れた。これほどまでに清純なものがこの醜い地の上にあって果たして平安のうちにその生をまっとうしえるものだろうかと。それを幸福な戯れ言と王が頬笑ましく聞いていたのはいつの頃までであったろう。今や彼は、そうした戯れの囁きの中にその実真実のあったことを知り悲しむのであった。というのも、王妃は今その腹に彼の子を宿していたからである。もはや王は知っていたのであった。その子こそ、いずれは彼の命を奪うべき宿命を背負った呪いの子なのだということを。それは私が彼に教えたことだった。
 王はその痺れるような悲痛の中でいつまでもただじっと王妃の背を見つめていた。すると、その視線に応えるかのように、王の見つめる彼方に不意に王妃の横顔がほのめいた。王妃は振り返った。そしてその古雅な憂いを秘めた瞳がそこに王の姿を捉えたとき、その唇にはやわらかな微笑が広がった。たちまち王は恐怖した。何故なら、そのとき王妃の瞳が真っ直ぐに彼への愛を語っていたからである。王妃は王に歩みを進めた。その間、王は一心に王妃の腹を見つめて身じろぎもしなかった。やがて王妃は立ち止まり、少し首を傾げながら、それでも微笑は崩さずに、王の手を彼女の両手でそっと包みこんだ。
「どうなさいましたの?このところ、お顔の色がすぐれません」
 心やさしい王妃は、ここしばらくの王のふさぎ込んだような様子を深く案じていたのである。そうした心遣いは、しかし今の彼には却って辛いものに感じられ、だからその切なさを漂わせた目をじっと王妃に向けるほかには為す術もなかった。すると王妃は、そのままその手を静かに彼女の腹にあてがうのであった。
「お分かりになりまして?ほら、このように元気に。きっとこの子は王子。いずれあなたのような立派な王となってくれることでしょう」
「王子・・・」
 と王は、何か慄然とした様子で呟いた。
 手に触れた王妃の衣の向こうには漣にも似たやわらかな蠢きが感じられた。それは王妃の中に宿った我が子の小さな命の現れであると同時に、魔物の蠢きにも彼には思えたのだった。束の間の殺意の後、突然王は言いしれぬ悲哀に突き当たった。その悲哀の中に彷徨っていたのは王妃への愛に違いなかった。もとより王には王妃にかけるべき言葉もなかったが、黙っていると、王妃はそうした沈黙をすら深いいたわりで包み込むかのように、もうそれ以上は何も言わずにそっと王の髪に指先を触れさせながら、静かな愛をやさしく灯したその微笑によってひたすら王の心を癒そうとする。そうした彼女の気高いやさしさに触れることで、王は彼自身の悲哀がいよいよ明瞭な形をなして目の前に彫り出されていくのを見る思いがする。突然王が王妃の身体をその胸に抱き寄せたとき、瞬時には恥じらいのために僅かな抗いを見せた王妃であったが、すぐに彼女は母のように広い心でその抱擁に身をまかせた。悲痛の中から愛に目覚めたのか、愛の中から悲痛に目覚めたのか、そのとき王が王妃に囁いた言葉は、完全に彼自身の想いを裏切ったものか、そうでなければ全くの真情であった。
「そなたが憎い」
 王妃に言葉はなかった。意味の在処も定かにはしれないその囁きに、ただ困惑して。
 そのとき不意に雲の影が落ちてきて、花園は墨絵のように翳った。

 日が経つにつれ、王妃の腹が傍目にも目立つようになってくると、それにつれて王はいよいよ気むずかしくなり、誰とも会わない日も多くなった。何も語らないのが王の王妃への愛情であったが、その愛情ゆえに王妃の愛は傷つけられた。その訳も知らされず、しかし王妃の前で王は確実に変貌していった。慈悲も正義もみるみる王の中で廃れていき、次第に彼は冷酷になった。些細な過ちに対しても処罰は苛烈となり、その場で斬り捨てられたり追放されたりする者も数知れなかった。王妃はそんな王の様子に心を痛めて、時折悲しむような眼差しを王に向けることもあったが、そこに僅かな憎しみの影もよぎらないことが王をますます苛立たせた。この美しく聡明な后が自分の傍にいるというその幸福、それが幸福であればあるほど、その幸福が彼をとことんまで苦しめる。苦痛に満ちた疼くような毎日が王には続いた。時あって真夜中に剣を振るう王の姿を見かけた者があった。その者は、王のその真摯な瞳に、きっと妖しいまでの狂おしさを見ただろう。そうして、また幾日かが過ぎていった。
 その日、王妃の使者の口から王に伝えられたことがあった。王妃が男子を産んだのであった。母子共に健やかであるという。王は、これほどおぞましい吉報を、かつて耳にしたことはなかった。
 その夜はいつになく静かで、森閑とした闇を霧が朧に包み込んでいた。森の梢に梟の声が灯ると、霧はいよいよ深く辺りに立ちこめ、寂とした暗闇にただ吹き彷徨う風の流れだけがさわさわと木立を抜けていった。人は皆寝静まったこの深更に、ただ一つ灯りの消えない窓があった。王の居室であった。
 王は椅子に深く身を預け、頭を抱えながら、痙攣的にその肩を震わせていた。
「ああ、イスカステ、我が最愛なる后、我が無上の宝、そして、罪の子の母よ・・・」
 このとき王の頬に涙を誘っていたものは、逃れられない宿命という観念であった。奴隷を幾人殺しても、罪無き者を幾人獄に繋いでも、やはりこの日は訪れた。どれほど人を慈しみ、どれほど正しきを行っても、やはりこの日は訪れたであろう。水が高きから低きへ流れるように、人という人の全ての生の道筋が予め定められたものであるなら、昨日も今日も、そして明日も、全ては起こりうるべき必然なのだった。王妃の懐妊も生まれた子が男子であったことも全てが必然であったなら、いつかその子に殺されることもまた必然に違いなかった。しかし、もしも道ばたに転がる小さな石さえが動かすことのできない必然なのだとしたなら、人とは何とちっぽけなものであろうか。定められた摂理の上を蠢くだけが人の生なら、人とは何と惨めな生きものであろうか。その意志が必然の水面に浮かぶ泡沫に過ぎないのなら、その祈りが必然のせせらぎに揺れる漣に過ぎないのなら、人の人たる証とは、ただ絶望することか。 
 苦悩に疲れ果て、やがて王は目を閉じた。目を閉じることはこのがんじがらめの宿世に対するささやかな抗いであった。目路の限りに広がるこの世の隅々にまで容赦なく必然の糸が張り巡らされているのなら、そこから逃れられる場所はその闇の世界にしかない。やがて王は眠りに落ちた。眠りの中で夢を見た。しかし夢さえが彼の願いを裏切った。それは悪夢であった。
 目覚めると帷の襞にちらちらと朝の光が漂っていた。夜もすがら彼を苛み続けた深い憂悶の果てに、いつしか彼の髪は白髪と化していた。皮膚は皺ばみ、血色は失せて、あたかも彼はその一晩で十年を生きたかのようであった。ただ、その目のみはぎらぎらと異様な光を放ち、ほとんど鬼神のような力強さを宿していた。そのとき、突然王の胸には、どす黒い憎悪に彩られた奇怪な歓喜が迸った。愛の極みに憎しみがあり、憎しみの果てに愛があるなら、嘆きの極みには歓喜があり、そして悲劇は、そうした歓喜の行き着くところにこそある。
「ククク・・・」
 と王は、不意に低い含み笑いを漏らした。しかし笑いはすぐに消えた。
「イオカステ!」
 叫びの中で王は立った。立ち上がると同時に彼は力強く足を踏み出した。
 そして私は、王妃の元へと向かう王の心に、慟哭にも似た決意を聞いたのだった。
 殺してくれる。殺してくれるわ、余の手で。余の定めがいずれ我が子の手にその父殺しの禍(まが)つ刃を握らせるなら、それが定められた余の道であるなら、抗おう。高きから低きへ流れるが水の定めなら、低きから高きを求めるは水の意地。避けえぬ死なら、避けんとするもまた人の意地だ。
「イオカステ!」
 忌まわしき宿命め、余の抗いにひれ伏すがいい。呪われた明日め、余の勝利にほぞを噛め。我が道は我が手で切り開いてみせよう。この王の道はこの王のもの。誰のものでもない。神のものでさえ!
「イオカステ!」
 神か魔物かは知らぬ。だが、うぬがこの世に敷いた我が定めは、余を刺し貫く剣を我が子の手に握らせる前に滅び去るのだ。余の決意に戦け、余の抗いを思いしれ。それが愛すべき余の息子だというなら、余は最も残虐にそれを殺してくれよう。その足を突き刺し、自由を奪い、森に捨て去り獣の餌としてくれる。それが長きに渡って余を苦しめてきたこの忌まわしき定めへの、余の復讐だ。
「イオカステ、イオカステ、イオカステ!」
 ものに憑かれたように、ひたすら王妃の元へと足を急がせながら、その間彼はずっとその名を叫び続けていた。
 私は、そんな彼の姿に、こう思わずにはいられなかった。
 哀れなるかな、人の子よ・・・・

────十数年の歳月が流れた。
 あの日以後、王と王妃の間は冷え切った。王は王妃にあの深い嘆きを与えた慚愧から王妃を避けるようになり、王妃は王妃で、王への裏切りの心苦しさから自然と王を避けるようになった。というのも、あの日王妃は、狂ったように我が子を殺そうとする王をどうにか欺いて、密かにその子を城外に逃がしていたからである。愛あるところですれ違うのが人というものか、一度すれ違えばもはや遠のいていくしかないのが人というものなのか。不幸な王と王妃は、いつしか互いの顔さえ忘れつつあった。
 その日、王は馬に車を引かせて城の外へと出た。彼は再び私の元へ来ようとしていたのだった。神ならぬ身の王妃は、それがこの王の死出の旅とも知らず、この日もついに見送りに出ることはなかった。
 その頃、スフィンクスという魔獣が巷に出没し、王国の民はその暴虐に悩まされていた。王は四人の供を引きつれてその魔獣に対する方策を私に聞こうとしていたのだ。数人の供ばかりではと危ぶむ声も多かったが、そうした危惧を王は一笑に付した。我が子に殺されるというのがその身の負った定めであるなら、その子亡き今は何者も彼の命を奪うことはできないはずだった。たとえそれが魔獣であっても。 
 風の中を車はひたすら走った。裾野を走り、繁みを越え、森を抜けると、一面の野の広がりは無辺であった。ぎらぎらと照りつける日射しに馬の汗は迸り、風を裂いて駆け抜けてゆく速さにそのたてがみは炎のように逆巻いた。土を蹴立てる車輪の音も高らかに王と供の四人を乗せた車がその広々とした野を行くうちに、やがて道は三筋の岐路に差し掛かった。御者が手綱を僅かに引いたのは、前方に旅の若者の姿を見つけたからであった。若者は一人であった。美しい姿をした若者である。御者は、軽いからかいの気持ちで、すれ違いざまにその若者の頭上に鞭を振るった・・・

────こうして、全ては必然のうちに幕を閉じたのであった。
 おそらく彼には、苦悩の果てに行き着いたあの狂気によってついに定めを乗り越えたのだと見えていたのだろう。愛さえ踏みにじり、踏みにじることで必然の範を越え、抗い難い定めの淵から自らの意志で己が生を掴み取ったのだと見えていたのだろう。だからこそ、諍いの末に若者の剣がその胸を刺し貫いてもなお、彼はしばらくは目の前に起こったことを信じることができずにいたのだった。それは彼にとっては決してありえないことだったからだ。若者が剣を引く。すると彼の胸からは鮮血が迸り、若者の衣服に僅かに降りかかった。死の間際の絶叫の中で、この謎めいた現実を前に彼は初めて私を疑った。
 あの神託は偽りであった。偽りの神託に踊らされるままに愛を捨てた余は、とんだ道化であった・・・
 しかし────ふと、私は彼に語りかけたい気持ちになった。
 しかしライオスよ。そうして定めを乗り越えようとした君のその意志それ自体が、すでに君の定めの輪のうちにあったのだと私が言ったら、君は一体どんな顔をするだろう・・・。
 彼はついにそれを知ることはなかったが、己が定めに抗おうとした彼は、抗うことで知らず知らずのうちに己が定めの上を歩いていたのではなかったろうか。水が高きから低きへ流れるように、ひたすらこの定められた終焉の日に向かって。何故なら、このときこの場で彼を殺したこの若者こそ、生まれる前からすでに彼の殺害を宿命づけられていたその子、あの日王妃の産んだ彼の息子にほかならなかったのだから。
 息絶えた王の骸を足元に見て、それから若者は、衣服についたその僅かな返り血を少し不快そうに気にしながら剣を納めると、もはやその骸を顧みることもなくまた自身の旅に向かって足を踏み出していった。
 風に草花の揺れる野の道を若者は力強く歩いていく。あたたかな日射しの中を、真っ直ぐに前だけを見つめて。その澄んだ瞳がいつか光を失うとき、私は再び見るだろう。
 あの歌のような、人の妙なる哀しみを・・・・・

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